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昭和の京成沿線案内図(その1) [街景色・人・モノ]

以前、東葉高速鉄道の開通記念乗車券をネタにした時にも書きましたが、Cedarは<コレクション癖>皆無です~が、自然と手元に集まったのもあります。折角ですから捨てたりはしないものの、きちんと管理してないものが多いのです・・

京成特急60周年03R.JPG京成特急60周年04拡大01R.JPG

(1・2)そんなものの中から、昭和30年代前半の京成沿線案内図(↑)を見つけました。

(3)まずは昭和33年の沿線案内図をご覧に入れます。上野⇔成田が本線として横一直線に描かれているのが珍しい~この後は押上方面がメインの時代になりますから・・京成特急60周年03R.JPG

細かいところは見えにくいので、興味深いところを拡大してみます。

(4)まずは都心寄りのエリアから。当時は都営1号線はもちろん開通前で、京成のゲージもまだ改軌前の1372mm=所謂馬車鉄軌間の頃でした。国鉄常磐線や東武の描き方がめちゃくちゃ適当なのにビックリしますし、蛇のようにうねる地下鉄銀座線には笑ってしまいます。京成s33沿線案内拡大.JPG今やスカイツリーで大盛り上がりの押上にも注目すべき発見が。押上~浅草雷門間に電車連絡バス」ってのが運行されていたようです。運賃はどうなっていたのか?など気になって夜も眠れない(春日三球~古い!)・・・

どなたかこのバスについてご存知の方、情報下さいませ・・・

(5)千住の隅田川沿いにあった「おばけ煙突」も沿線名所のひとつだったのですね。お化け煙突.JPGたしかに京成町屋~千住大橋辺りの車窓から、この4本煙突はよく見えました。


次は終点の成田周辺です。

(6)昭和20~30年代らしいタッチのイラストで書かれた灯台やお馬さんがいい味出しています。馬が描かれているあたり、三里塚牧場や芝山に成田空港が出来たわけです。この頃から田中角栄サンは暗躍してたんだろうなあ。京成s33沿線案内拡大03.JPG犬吠崎灯台の横に私鉄をあらわす記号=銚子鉄道と記載されていますが、もちろん銚子電鉄のことです。


(7)こちらは千葉方面の拡大です。京成千葉線沿線は埋め立て前で、海水浴や潮干狩りが楽しめました~この頃の夏の京成は、普段は地味な千葉線にたくさんの海水浴臨電が運転されたものでした。(ガキ時分のCedarも、京成に乗って稲毛海岸に潮干狩りに行った記憶があります。)京成s33沿線案内拡大02.JPGこの地図によれば、京成千葉のほんのちょっぴり東(!!)の東金から上総片貝までの鉄道は、東京から一番近い軽便=九十九里鉄道です。

現在の京成千原線は小湊鉄道予定線の一部だったのですね~実現していたら小湊鉄道のキハが京成千葉まで来たのか?はたまた小湊鉄道が1435mmになって上野から養老渓谷行き観光特急が運転されたのか?などと埒無いことを考えたりします(=そんなアホはオマエだけ?)が、現状の千原線を見る限り、100%有り得ないでしょう。



 

続いて昭和35年の沿線案内図です。


パット見で最大の違いは、都営地下鉄=押上線=成田が一直線に描かれたこと=この後永く続く「押上線本線扱い」がこの頃から始まったわけですが、一方で当時も今も、最上級列車(当時は開運号、今ならスカイライナー)は上野発着なのも京成の特徴です。

都営地下鉄は第一期開通の浅草橋までしかありません。このあとお役所仕事らしくブツ切れ開業を繰り返して、そのたびに京成はダイヤや列車種別の変更に、こまめに付き合っていましたね。

京成特急60周年04拡大01R.JPG(8) 

 


(9)都心寄りエリアの拡大です。当時は東京のシンボルだった東京タワーや、四十七士の墓などが先回りして記載されているのも、なんだかいじらしい。 京成s35沿線案内拡大03.JPG気が付くことは、他鉄道の描き方が真面目になってきたことです。イラスト技法の違い、と言ってしまえばそれまでですが、昭和33年度版はあまりにもテキトーすぎた反省もあるかと・・・。

(10)更に気になったのは、荒川と江戸川の河口に挟まれた場所にある「葛西水郷」釣り人の絵が描かれているように、昭和30年代までは東京屈指の釣り場でした。金町に住んでいた祖父は釣りが大好きで、仲間と一緒に鮒などを釣りに行っていたようです。当時からこの辺りは京成バスの縄張りでしたね。更に埋め立て前の遠浅の海も絶好の釣り場で、はぜ・ぼらの絵が。京成沿線案内s35葛西水郷.JPG

(11=この参考画像は昭和30年代まで東京湾でやっていた<青ギスの脚立釣り>。祖父に聞いた話では遠浅の海に立てた脚立までは船で送り迎えし、弁当も届くのだそうです。)青ギス脚立釣り.jpg

葛西水郷と呼ばれた辺りは、今の東西線西葛西⇔葛西周辺~当時の面影がどうのこうの、という話をする意味すらないほどの変貌ぶりです。


 

(12)更に、この案内図で私が泣けた(!)のはここです。京成s35沿線案内拡大02.JPG          この頃は、駅で言えば船橋~谷津遊園の海岸沿いを「京成アミューズランド」として売り出していた時期だったのです、小学校低学年だったCedar も金町の母の実家から京成に乗り、幾度と無く出かけたものでした。

ヘルスセンターの温泉マークはともかく、赤いクルマや観覧車、象さんやコースターなど、NYのコニーアイランドかアトランティックシティのようなイメージなのは、イラストのタッチの所為ですね。

「アミューズ」っていう英語も新鮮でした~京成のお客さん、意味分かったのでしょうか?

実際には船橋ヘルスセンターの「チョチョンのパ、チョチョンのパ♪」ていう民謡風CMソングそのまま、紛れも無いジャパンアミューズメントパークでした。

船橋へるすせんたー.JPG(13・14)大滝すべり.JPG巨大なウォータースライダー、その名も「大滝すべり」や、谷津遊園にはレールの一部がチョコっとだけ砂浜の上にはみ出た「海上コースター」なんてのもありました。大人のアミューズメントとしては船橋オート、競馬場があり、これでカジノがあれば日本のアトランティックシティ・・・無理か?

このあとしばらくして廃止された九十九里鉄道の車両が、船橋ヘルスセンター⇔谷津遊園を走るという計画が発表されたり。

・・・などと言ってるうちに海はどんどん埋め立てられてしまい、城北、城東地区のガキどもの憧れ「京成アミューズランド」は、都市化の波にあえなく消えたのでした。

まぁ、京成は後にTDLの運営会社オリエンタルランドの経営に参画したから、元は取ったですけど。


(15)こちらも千葉エリアの拡大を見ていただきます。京成s35沿線案内拡大01.JPG         小湊・九十九里鉄道(どちらも京成の関連会社です)の表記はあまり変っていませんが、国鉄の描き方は大いに変りました。線形はほぼ正しく描かれて、千葉や大網のスイッチバックもキチンと表現してます~そもそも昭和33年の案内図には蘇我⇔大網間の房総東線が描いてないですから!(7・参照)


 

・・・って言うわけで某記念グッズの中にあった京成沿線案内図を取り上げてみました。昔は駅の掲示板や改札口の上などに、こうした沿線案内図が掲げられていたものでした。役に立ったのかは別として、眺めて楽しんでいる人も多かった気がします。

(16=参考画像は上田交通別所温泉駅に保存されているもの=今も残っているようですね)上田交通沿線案内.JPG

何事もドライでデジタルな感性の昨今、リアルな地図検索がケータイやスマホで出来る時代に、こういうものの役割は無いですよね。

最後になりましたがお詫びです。結局鉄写真が皆無でした=実は案内図には続きがあり、時代も大分下るので、次回自前の鉄写真付きでご覧に入れられそうです。

 

 

 


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コメント 36

hanamura

沿線案内図いいですね~。山の中で育ったので、
祖母の旅行土産を飽きずにながめていました。
by hanamura (2012-09-10 07:43) 

EF510-230

新橋-成田間の定期急行バスって一体何時間かかったのでしょうか。京葉道路くらいはあっでしょうけど高速道路が全くない時代ですから、4時間くらいかかったのかな?とも思います。この時代は東京-長野間(長野電鉄)、東京-仙台間(東北急行)の長距離バスもありましたね。

by EF510-230 (2012-09-10 10:00) 

うたに

船橋ヘルスセンター…すごい昭和テイストなネーミング!
今ならネオン街の裏通りにある、ちといかがわしい雰囲気のお店を想像してしまう〜(^ ^ ;
それにしても、上総中野がやけに外房に近いですね(笑)
by うたに (2012-09-10 12:50) 

katsu

九十九里鉄道の路線図が刺激的ですネ。
昭和36年2月、いよいよ廃線を迎えた九十九里に
どうしても行きたかったけど行けなかった。
確かに東京から一番近い軽便でしたが
汽車に乗って行く東金があまりに遠く感じた10代でした。
翌年4月から撮り始めたので九十九里や草軽は
タッチの差で手の届かない世界に。
by katsu (2012-09-10 14:16) 

なにわ@昼休み

コメント入れるには大ネタすぎるので、レスのツッコミだけで、また夕方に。
>EF510-230さん
長野線は1961年運転開始、仙台線(ある意味今も健在ですが)は1962年運転開始です。
>うたにさん
ヘルスにそういう意味をもたせた奴が悪いんですよ。

by なにわ@昼休み (2012-09-10 14:29) 

maipenrai

うわぁ、懐かしいなぁ! ガキの時分、京成電車の中に掲出されていた実物をたぶん見ています。反応しどころが多すぎて迷うんですが、33年版ではアバウトだった京成バス路線が、35年版ではきっちり描かれている。当時市川駅前から出ていた東京駅行き、上野広小路行き、船橋ヘルスセンター行きの路線がたどれて嬉しくなります。それにしても押上-雷門の「電車連絡バス」、謎ですねぇ。この区間なら都電の24番が便利でしたけど。
by maipenrai (2012-09-10 16:42) 

サットン

船橋ヘルスセンター、8時だよ全員集合の中継だか収録の会場になっていたので大阪のガキにもお馴染みでした。時は流れて昭和の末期、大阪のガキはサラリーマンになり日々船橋のしつこい客引きと戦いながら通勤に励んでいたのでした。
京成沿線の釣りというと当時車内広告にあった「のっこみの印旛沼」ですが、この意味は今も不明です。

by サットン (2012-09-10 17:27) 

nd502

小湊鉄道予定線というのが泣けます。
by nd502 (2012-09-10 17:37) 

なにわ

本当に小湊鉄道は海士有木から千葉まで延長する気だったんですよ。
バブルの住宅開発で千葉急行を建設して炎上しちゃって、やむなく千原線になっちゃったわけなので。

大滝すべり、これが後年ザウスになったんでしょうか。

三里塚ぐらいしか、国が自由にできる土地はなかったわけでして。御料牧場は那須のほうに移動してしまいます。
ただ、三里塚は戦後引揚者が荒地を耕したところもあるわけで、それが成田空港闘争につながってゆくわけです。

電車連絡バスって何だったんでしょうか、四ツ木のほうから押上経由で上野松坂屋まで走っていたバスだったんでしょうか。
共同運行していた都バスは青戸~押上~錦糸町(錦37)と路線を振替、
押上~上野も平井駅~押上~上野松坂屋(上23)として健在のようです。
そういえば、都電健在の頃、錦糸町駅前にオリエンタルランド所有地ってのがありましたが、今はどうなっているのやら。




by なにわ (2012-09-10 18:41) 

EF510-230

なにわ@昼休みさん、凄いですね。調べると京葉道路も1960年になってからの開通でした。だとすると成田までのバスは半日がかりでしょうか?
恐らく千葉県内は砂利道を走っていたんではないでしょうか。

by EF510-230 (2012-09-10 20:02) 

利きゅう

沿線案内図って、意外と資料的価値が高いですよね!行楽の臨時列車の時刻表なんて掲載されていた日には・・・

昭和33年の沿線案内図は鉄道ピクトリアルの京成特集号で見た記憶があります。
九十九里鉄道って、改めて京成グループだったんですね!

駅の案内図といえば、南海汐見橋線の終点汐見橋駅に昭和30年代のもが平成になっても改札に掲げられていましたっけ・・・今も残っているかな?
by 利きゅう (2012-09-10 20:37) 

Cedar

★UZ様
★フジトモ様
★やまびこ3 様
★あおたけ様
★モボ様
★hetianソウソウ様
★ひもブレーキ様
★あるまーき様
nice!ありがとうございます


by Cedar (2012-09-10 23:10) 

プント

千葉線の駅名が現在と結構(と言っても2つですが)
違うことにびっくりしました。
頭ではわかっているのですが、昔は海岸線が随分現在と
違ったのだなあと再認識することが出来ました。

by プント (2012-09-10 23:15) 

のり

鉄道案内の古地図は、本当に面白いですね。なんだかワクワクしてみてしまいます。
小湊鉄道予定線・・・なんて、鉄道が華やかなりしころの夢だったんですね。
by のり (2012-09-10 23:33) 

Cedar

■hanamura様
沿線案内図は子供の旅心をくすぐります。絵本のようなタッチだからでしょうか?
■うたに様
ヘルスセンターが恥ずかしいコトバになったのはずいぶん後ですね。
私の小学校では「俺んち明日はみんなでヘルス行くよ!」「ねーちゃんとヘルスのお風呂で遊んだ」などという会話が楽しげに交わされていました
■Kastu様
昔も今も千葉方面は実距離よりも遠く感じるのはなぜでしょうか?
九十九里鉄道は廃止後もあちこちに遺構が残っていて、片貝に海水浴に行くたびに気になっていました。
■maipenrai様
沿線育ちには懐かしいですよね~。ユックリとお楽しみいただきたく・・・
京成バスは上野広小路でよく見かけました。都バスの沈んだ塗装に比べて、ブルーと白のすっきりしたツートンは清潔感を感じたものでした。 市川駅行きに、用も無いのに乗ったことがあります。
■サットン様
大阪から京成沿線に移られたのですね。船橋の呼び込みは八千代市民だったときに散々経験しましたが、今となってはあの猥雑な船橋も、いっそ懐かしいです。
■nd502様
昭和40年代半ばまで、京成の路線図には小湊鉄道予定線として掲出されていました。あまありき、なんて変な駅名だなあと思いました。
■なにわ様
多岐に渡って詳細な記述ありがとうございます。
京成の戦後はなかなか波乱万丈です~土地や投機の動きが経営破たん寸前まで行ってしまったり、成田空港の開港遅れ、スカイライナーへの放火などもありました。
この沿線案内図の頃の京成は元気でしたね。
■EF510-230様
昭和30年代の千葉の道路は最悪だったらしいです。
千葉街道も往復2車線だったし、成田詣での善男善女は辛抱強かったのでしょう。
■利きゅう様
汐見橋の沿線案内は、4~5年前にはボロボロでしたが残っていました。
デジタルな世の中には全くふさわしくないものですね。
by Cedar (2012-09-10 23:35) 

Cedar

■プント様
若い千葉市民から見ると、ホントかよ?って感じですよね。
みどり台=黒砂、西登戸=千葉海岸、でしたっけ?
ガキの頃稲毛海岸に潮干狩りに行ったときは、駅からすぐの千葉街道沿いに海岸が広がっていました。
■のり様
この路線図は鉄道が夢を見ていた頃のモノですね。
小湊鉄道予定線、都営地下鉄予定線、京急予定線・・・・夢は現実となったり、夢のまま終わったり、関東では新線計画は、相鉄⇔JR・東急との連絡線くらいです。
by Cedar (2012-09-10 23:48) 

U

昔の路線図っていいですねぇ。突っ込みどころ満載で!楽しい。
テツ写真なくとも充分当時の光景が浮かんできそうです。
お化け煙突や谷津遊園のふもとを颯爽と駆け抜けていたのでしょうか。
ふンなばしヘルスセンター(アゴ&キンゾーがネタで使っていたのを思い出す・・・誰もわからないか・・)あのマンガCMは某K同広告でしたね確か。

by U (2012-09-11 02:12) 

nexus6

プントさんも仰せの京成千葉線の駅名変遷がオモシロイですね
黒砂とかイイ名前で、別に変えなくても良かったのに。  それと、「国鉄千葉駅前」 なんてバス停みたいな名前の時代もありましたっけ
by nexus6 (2012-09-11 07:08) 

Cedar

■U様
船橋ヘルスセンターがK同さんだったとは。
あのCMソングの作詞作曲はだれなんだろう。案外超有名人だったりして。
■nexus6様
「国鉄千葉駅前」って駅名、私鉄史に残りますね。
昔近鉄に「橿原神宮駅」って駅名が有りましたが。

by Cedar (2012-09-11 15:06) 

伊豆之国

京成沿線には、このところ社用で足を運ぶことが多くなったことは前にも書き込みましたが、少年時代にこの辺りを通った頃のかすかな記憶と比べてみると、全く違う景色になったことにいまさらながら驚きます。谷津遊園には、小学4年ごろだったか、遠足で潮干狩りに行ったことがあり、当時は結構貝が採れたことや、「海の家」のたたずまいなども覚えていますが、最近になって社用でこの谷津界隈に行く機会があり、ここに昔遊園地や潮干狩りのできる砂浜があったということが信じられないような変わりようで、駅周辺にはマンションが林立、大病院も建って、もはや往時をしのぶものなど全く見られませんでした。船橋駅は、やはり社用でJRの北口からバスに乗ったのですが、昔は何もなくて殺伐としていた「裏口」だった北口にこんな立派なバスターミナルができていたとは知りませんでした。
小湊鉄道とつなぐ計画が挫折し、全く影の薄い存在になっている「千葉線・千原線」ですが、「黒砂」「千葉海岸」がそれぞれ「みどり台」「西登戸」に変わったのは、駅周辺の町名に合わせたのでしょうが、埋め立てが進んで「海辺」を連想する駅名が消えたのは、やはり必然だったのでしょうか。「西登戸」を「にしのぶと」と正しく読める人は地元以外にはほとんどいないと思うのですが、実はこの「登戸(のぶと)」は川崎市多摩区の「登戸(のぼりと)」と大いに関係があるようで、川崎市「登戸」の北西にある東京都稲城市は、古くは「稲毛」だったそうで、千葉市の「稲毛」「登戸」はともに多摩川沿いから移住してきた人が開いた土地だった、ということを本で見たことがあります。
小湊鉄道は、11年前に養老渓谷に行ったときに乗ったことがありますが、五井寄りの平野部と、上総牛久より山側では風景にも利用者数にも落差が大きく、当時既に上総牛久以南では一桁の運行本数になっていました。難読の「海士有木」「飯給」がひらがな表記になっているのは、やはり読める人が少ないからでしょう。「海士」を「あま」と読む地名は、島根県隠岐の島や石川県輪島市にもあり、「漁師」の意味だそうです。今では「海女」と書いて、女性のほうに意味が変わってしまっていますが。
そういえば、現在の京成線の案内で「臼井」がひらがな表示になっているのは、北総線の「白井」と字面が似ているため、混同・誤乗車防止対策のためだとか。
by 伊豆之国 (2012-09-11 20:31) 

Cedar

■伊豆之国様
例によって詳細な記述に思わず引き込まれてしまいました。何時もありがとうございます。

★Reirei様
★nexus6様
★yakitorimitbier様
nice!ありがとうございます

by Cedar (2012-09-11 22:02) 

京葉帝都

10年近く前に流通していた「パスネット」の京成電鉄沿線マップの図柄も当時からのレイアウトや色の使い方を踏襲していました。昔の地図は新京成の路線も京成と同じ紺色になっていましたが、ぱっと見では現在の路線図のように見えました。千住の4本の煙突は、唐十郎のテント芝居『お化け煙突物語』の題材にもなりました。新宿花園神社境内か両国貨物駅跡地で観たことがありました。
by 京葉帝都 (2012-09-12 01:31) 

U

プライベートアンサーですみません。作詞作曲・三木鶏郎、歌・楠トシエのゴールデンコンビ。ちなみにK同の歴史的3大CMは、「ワッワッワー輪が三つ」「カステラ一番電話は二番」「チョチョンのパ」。古いねぇ~。
by U (2012-09-12 02:10) 

Tad

三木トリローの傑作鉄歌は「ボクは特急の機関士で」ですねェ。
後年のはエノケン+楠トシエ・ヴァージョンがありますが,確かオリジナルは河合坊茶や丹下キヨ子だった筈…。60年以上前の曲ですからエラク古い話で恐縮です。
鉄道模型仲間と行ったカラオケで披露しようと思ったら入ってない! ガッカリでした。
相変わらず無関係な話で,こらまった失礼しましたっ!
by Tad (2012-09-12 03:42) 

Cedar

■京葉帝都様
パスネット、なんだか懐かしい。
唐十郎、むちゃくちゃ懐かしい!ちなみに私は花園神社でした。
■U様
K同さん。凄いじゃないですか!
野坂昭如さんなんか、この頃は別名でCM作詞で儲けまくってたらしいです。

★takechan様
nice!ありがとうございます
■Tad様
トリロー先生の交通機関の歌には『田舎のバスはおんぼろぐるま~』ってのも有りましたね。こういう歌で盛り上がれるスナックが恵比寿にあります。機会あればぜひご一緒に‼

by Cedar (2012-09-12 21:38) 

やまびこ3

船橋ヘルスセンターの巨大プールとウォータースライダー、とても懐かしいです。ここを下るのは子どもにはかなりこわかったなあ。
青ギスの脚立釣りなんてホントにあったんですね。
by やまびこ3 (2012-09-13 08:17) 

fujimiya

子ども会(死語?)でヘルスセンターよくいったな(^~^)
町屋まで都電で行ってそれから京成に乗り換え。
船橋から行くと混んでるので大神宮下から歩きだったっけ
長生きしたけりゃちょっとおいでー ちょちょんのぱ ちょちょんのぱ
谷津遊園には家族で行った写真がどっかにあるはず。
懐かしい話ありがとう
by fujimiya (2012-09-13 12:50) 

Cedar

■やまびこ3様
たしかに、大滝すべりは豊島園なんかのと違い、一直線でしたから怖かったですね。
青ギス脚立釣り、いまなら津波と地震が怖くて絶対許可されないでしょう。
■fujimiya様
こちらこそ、ご訪問とコメントありがとうございます。貴ブログのお写真、泣けました。
by Cedar (2012-09-14 01:02) 

Cedar

★denta60様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-09-14 01:32) 

Cedar

★ひでほ様
★PALの大冒険様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-09-16 17:57) 

Cedar

★きゅんぱち様
nice!ありがとうございます
by Cedar (2012-09-21 22:13) 

ヤッチャン

以前、白梅の話で書き込みさせていただいた者です。久しぶりに時間があったので、ネットを見ていたら、また行き当たりブログを拝見させていただきました。

真夏の時間帯は お彼岸なんかでご先祖の霊が近くなるんでしょう。昔の事を思い出させる物が多いです。千葉方面の話は子供時分の事で、何と言っていいのか解らない感覚に襲われます。

エ~と あの頃どうしてああだったのかを考えるのが好きな物で、、、。谷津遊園とヘルスセンターは船橋あたりの事を考える上ではずせないですよね、そこに地主や京成やらの事やらが絡んでいて、TDL(デズニー)が出来上がる上でのステップになっていったんです。ヘルスセンターは鉱泉を沸かす為に散々天然ガスを取って、毎年30Cmも地盤沈下をして行って近所に迷惑をかけたにもかかわらず、税金収入が有る為、やめさせる事が出来なかったんです。何といっていいのか。

チバラギ仕様のシャコタンやゾクの事が懐かしい。私はメンバーじゃなかったんですが、あれって荒波と戦う漁師の子供たちの遊びだったんじゃないかと思うんです。

高校野球もすごかったし、習志野やチョーショーがすごかった。某監督の未亡人が近所に住んでいて、それはそれはセクシーで見かけるたびにドキドキしたっけ。

あの辺りは電車が鉄道がいろいろ走っていて面白いですよね、子供の頃、西船の操車場で入れ替えをずっと眺めていました。踏切が長くて怖かったし、、、。





by ヤッチャン (2013-08-14 15:45) 

Cedar

■ヤッチャン様
しばらくでございます!ご訪問とコメントありがとうございます!
>エ~と あの頃どうしてああだったのかを考えるのが好き
まったく私と一緒ですね~このブログは殆どその成分で成り立ってますから。
谷津遊園とヘルスセンターがTDLの下敷きになったというのは単なる場所柄の話を超えてなるほどと思います。ヘルスセンターがそんなメイワク施設だったなんてことは、夏になると頻繁に通っていたがきには知る由もありませんでした。シャコタンが猟師の子供の遊び・・・・いや~面白いです。
西船の操車場で入換眺めていらしたとは・・・鉄分含有率が高い?
by Cedar (2013-08-15 00:09) 

ヤッチャン

またまた、続きでスミマセン。
”ギョギョウケンホウキ”っていうのが子供には何の事かサッパリ解らなかったんですが、埋め立て保証で莫大な金が、千葉の沿岸に落とされたんです。それで歓楽街がメチャメチャ儲かり、地面が値上がりして,ヘルス地主と京成が土地を売っぱらい、今度は浦安沖を埋めて、TDLの資金にしていったんです。そんな事との連鎖で高度成長期には色んな事が起こったんです。

チバラギシャコタンも 習志野高校野球部も 漁民農民資金が豊富だから強かったんですネ〜。小川君は今まだヤクルト監督だったっぺか?掛布は大阪にいっちまったが。

あの〜 ご興味が有ったらでの情報なんすが、、、篠崎か、行徳かに、コイのいけすが有って、そこにトロッコが有ったんです。セイゼイ全長200mで母屋から餌樽を載せておじさんがいけすの横を押して行き、餌を投げるんです、故父につれられ時々鯉を見に行ったんですが、私にはそっちの方が面白くて、ジロジロ見てました。凄い匂いでしたが、、。
なんで思い出したかというと、最近、市川市の資料かなにかで覗いたんですが、明治日露戦争の前の5−6年間、東葛人力鉄道?というのが有ったと書いてありまして、なんと木下街道(キオロシカイドウ)をずっと人力で押して、行徳と鎌ヶ谷をゴロゴロ行ったり来たりしていたらしいんです。上記のもの、どうもそれの遺物だった感じがしてなら無いんです。

私は自分で調査するような環境に無いので、もし誰か解る方がいたら、という程度の物です。曖昧な物ばかりで申し分けが無いですが、お仲間との話題にでもしてみて下さい。

by ヤッチャン (2013-08-15 07:16) 

Cedar

■ヤッチャン様
東葛人車鉄道について調べちゃいました。たしかに、千葉県東葛飾郡鎌ケ谷村(現・鎌ケ谷市)・法典村(現・船橋市)・中山村・行徳町(ともに現・市川市)に1909年から1918年まで存在した人車軌道だそうです。サツマイモや薪炭、肥料など貨物輸送を中心に旅客も運んだとか、路線の半分以上は木下街道(現・千葉県道59号市川印西線)上に敷設されていたとのことです。
母は現在鬼越駅近くの木下街道から100m入った辺りに住んでいますが、父が生きているときに『この道には人車軌道が走ってた』言っていた記憶があります。それにしてもたった9年で廃止とは、よほど儲からなかったんでしょうね。法殿村の村長が社長だったらしいですが、その一存で廃止が決まったとか・・。
生簀のトロッコが名残かどうかは分りませんでした。
by Cedar (2013-08-15 20:21) 

prefchiba

私が最近作ったページに掲載している写真に、谷津支線の配線盛土らしきものが写っていました。
by prefchiba (2015-07-21 23:45) 

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